事実は二の次だと思っています。
ちょっと極端なタイトルですが、『認識がすべて』というのは、私が好んで使う言葉のひとつです。もちろん、認識が事実と違っていた場合に、その事が直接不利益を被るようであれば、できるだけ早急に事実に近づいたり、知ったりする必要がありますが、事実と認識に差があったとして、その差によって、なんら不利益を被らないようであれば、それはそれでOKである。という感じです。
毒じゃないと思って食べたリンゴが毒入りだったら、これは大問題。
ではなくて、
薬だと思って飲んだら頭痛が治ったけど、実はプラセボ。
という場合に、誰が不利益を被るのか?という話です。それで、良いのではないかな、と。
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他の面でも、認識が全てだと思うことはたくさんあります。
なにも、事実を知る事のみが常に至上ではない。という事です。
ゲーム理論などの場合、相手が次にどうでるか?は、事実が問題なのではなく、相手が事実として何を認識しているか?が、問題です。
人には人の見ている世界があり、私には私の見ている世界がある。ギャップがあってトラブルが発生する場合には、もちろん、埋める努力は必要ですが、そのギャップから直接の問題が発生しないのであれば、それはそれで良いではないですか。という感じ。
ただ、その認識の違いを考える事は重要だと思います。
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狭い視野で物事を考えた場合には、広い視野の人にはお見通しになります。(包括している場合が多いので)
ですが、だからと言って、広い視野の人がいつも勝つとは限りません。広いが故に、困難になったり考えないと行けなかったり、まぁ、いろいろあるからですね。
ですがまぁ、認識が全てだと思って行動している方が、世の中のたくさんの理不尽に対しても、受け入れる度量ができるので、良いのではないかなぁ、って話でした。
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